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第三回 
〜メキシコ珍道中の巻〜

      
3月2日 3月3日 3月4日 3月5日 3月6日 3月7日 3月8日3月9日3月10日3月11日

半期に一度の長期休暇。行ってみたい所は数多くあれど、時間と値段と優先順位と、いくらかの条件を考えた末、今回は『寒い』という理由一点でフィンランドオーロラ探訪を抑え、メキシコ遺跡めぐりが決定した。一応大学では考古学を専修とする身、後ろ向きな石くれを見て回るのも興味のあるところだし、悪くないだろう。航空券を調達し、植木に十分に水をやり、旅装の準備をそこそこに済ませる。今回のメキシコ往復航空券、成田発、アトランタ経由、メキシコシティ着なのだが、値段は5万円ほどと非常に手ごろで(他の諸々の費用を合わせると実際にはさらにいくらか高くつくのだが)、購入する段になって初めてメキシコ行きで正解だったのかなと思われる。



3月2日
 どうせ成田発なのだからと、飛行機は3月3日発なのに、2日から東京に乗り込む。高校時代の友達と久しぶりに会い、見慣れぬリクルートスーツと就職活動の話にこれからの事を考えていくらか憂鬱になる。共に食事を済ませ、再びセミナーへと向かう彼と別れる。東京ではこれといって行ってみたい場所もないため横浜中華街へ向かうことにする。横浜駅に到着してから、本屋を探し、るるぶでアクセスを調べ、中華街へと向かう。やたらと食事一つにも値段の張るところだなぁといった印象程度のものだったが、適当に店を見て回りいくらか時間をつぶす。みなとみらいから桜木町まで歩き、再び横浜駅へ。別の友達に迎えに来てもらい、今日の宿となる彼の家へ。ここでも就職活動の話が出ていくらか鬱になりつつも(順調にいったため春から大学四年生である彼らの話題としては確かに一番の関心事であるから仕方がないのだが)、久しぶりの話に花が咲く。彼は特に僕の中学の時の友達の話がお気に入りだったようだ。


3月3日
 寝付いたのは比較的遅かったが朝はきちんと目覚める。朝っぱらから出来ちゃった婚のエピソードを特集したテレビ番組を見せつけられ、これから海外に旅立とうという朝のテンションとしては今ひとつのものがあったが、12時ごろに出発する。横浜駅まで見送りに来てくれた彼と別れ、どこからが旅行なのかなにやら曖昧になった感があるが、いよいよ一人旅を本格的にスタートさせる。横浜駅から成田空港へは2時間ほどだが直通のため便利なものである。メキシコでは電車は機能していないらしいので、しばし電車との別れを楽しむ。

 4時ごろ成田空港発。700ドルほど両替する。予定としては十分に余裕のある旅行が出来るはずである。今回は3度目の海外なのだが、飛行機に乗る前に靴まで脱がされたのは初めてだった。確かに刃物も隠せそうなごっついトレッキングシューズの中まで調べるというのはテロ対策のために必要なのだろうけれども、どうにも納得がいかない。
 『あんたの国ががテロに見舞われる2年も前から、俺はこの靴を履いてるんですがね』と、言ってやりたかった。ブッシュに。
 12時間ほどの空の旅で日本時間4日の午前4時ごろ、アトランタ時間で3日の午後2時ごろにアトランタに到着する。アトランタ空港で5000ペソ(≒520米ドル、つまり1ペソ≒12、3円となる)ほど両替する。アメリカの飲み物は馬鹿デカイという話をよく聞くので、Lサイズのスプライトを注文してみる。
 …くはぁ…。
 もともと日本では炭酸の飲み物をほとんど飲まないのに、調子に乗ってスプライトなどと言ってみたのが悪かった。出てきたのは色も絵も何も描かれていない無骨な発泡スチロールの、そう、まるで桶のような入れ物。1,5リットル程ははゆうにあるだろうか。飲んでも飲んでも無くならず、早々にギブアップ。まさかスプライトに戦慄を覚えることになるとは。

 午後5時半過ぎ、アトランタ発。アトランタ時9時半ごろメキシコシティ着。メキシコ時午後8時半ごろ。メキシコシティは日本から15時間遅れということになり、いくらかのズレはあるものの、ほとんど昼夜逆転となる。もともと夜型生活を送ってきたためそれほどこちらでは影響はないのだが。
 長時間の飛行機のせいでいくらか疲れているし、夜中ということもあるし、メキシコシティを網羅するメトロの勝手もよくわからないので、120ペソほどと値段は張るが安全確実なチケット制のタクシーで、今日の宿にと考えていたところへと向かう。宿代は190ペソ。ガイドブックに乗っていたよりも値段が上がっていたのが少し気になったが、周囲へのアクセスときれいな内装、トイレ、シャワーと、広い部屋、やたらと高い天井と、なかなかのところである。明日からはけっこうハードな旅になる予定なので、初日ぐらい少しぐらいリッチに過ごしても悪くは無いだろう。シャワーを浴びて、明日以降の予定を立てて早々に眠ることにする。


3月4日
 午前七時に起床。いよいよ本格的にメキシコの遺跡めぐりの開始となる。メキシコの国土は日本のおよそ5倍と意外と広く、また、各地を結ぶ主要交通手段は長距離バスであるため、非常に多くの時間を移動のために割かなくてはならない。それらの条件を鑑みて、今回の旅の、大まかなルートが決定した。現在いるメキシコシティはメキシコのおよそ中央からやや南東よりに位置するが、そこからまずは1000キロほど東のメリダまで飛行機で移動。メリダからさらに東に行ったチチェン・イツァー遺跡を手始めに、バスで西へ西へと向かい、メキシコシティに向かってくるという、前回の教訓を生かし、(停電などの)不慮の事態にも対応できるようなルートをとることにする。問題があるとすれば、ほとんど想定していなかったメキシコ国内線の利用のために、様々な費用を節約していかなければならないということだけだろう。早くも前日の無駄遣いとも思われるタクシー代と、いくらか高くついた宿代を反省する。

 とりあえず、今日は午後の便でメリダに向かう予定のため(そんな便があるということは、確認してもいないのだが)、昼ごろまでメキシコシティを散策してから、空港に向かうことにする。屋台というか露店というかで食事を適当に済ませ、宿から少し歩いたカテドラル(大教会)、メキシコシティ内で発見されたアステカの遺跡であるテンプロ・マヨールとその博物館を見学する。朝早いせいか、博物館は閑散としており警備員のおっさんも暇だったのだろうか、展示物の解説だとか聞いてもいないルートの解説だとか、とにかく親切にしてくれた。もちろん、スペイン語はさっぱりわからないのだが。発掘された遺物の質、量共に非常に充実しており、これから先に非常に期待を持たせてくれる内容であった。国立宮殿、ガリバルディ広場とめぐる。昼のガリバルディ広場は2,3人のマリアッチのおっさんが音あわせなのか練習なのかしている程度で、予想はしていたがいくらか残念であった。昼食はなにやらよくわからないものの入ったスープ。千切りキャベツやみじん切りたまねぎ、サルサソースなどをお好みに合わせて自由に入れられるようになっているのだが、何をどんな割合で入れても大したことが無かった。店の選択がまずかったのだろうか。

 メキシコの一瞥程度で得られた感想は、パンが安くて、といっても思っていたよりもメキシコの物価は安くは無い様で日本の半値ぐらいなのだが、なかなかおいしいことと、これはどこでもそうだが遺跡などへの入場料が高いということ、インフレが進行しているとは聞いていたが、ガイドブックに載っているよりも大抵のものの値段が上がっているということである。

 メトロを利用して空港に向かう。メトロはメキシコシティ中を網羅しているのだが、料金は2ペソで、駅から出ない限りは、距離や時間、乗り継ぎなどは一切関係なし。イスが硬いことと、車両内でいきなり大声で口上を述べだす物売りが少しうるさい事を考えても、このわかりやすさと安価さは、非常に優れたものであろう。昨日メトロを利用せずにタクシーなんぞを使ってしまった事を反省する。空港に到着。メキシコシティ発、メリダ着の便の値段を聞くと1780ペソとのこと。確かに痛い出費だが、予想していたよりも幾分安かったので、空路でメリダへ乗り込むことに決定する。航空券を購入。生活費を切り詰めなければならなさそうだ。
 飛行機の時間まで2時間ほどあるのでメトロでチャプルテペック公園へ向かう。公園内を適当に散策し、その辺の歴史のことはまったく知らないのだが、独裁者であったディアス大統領夫妻の住まいであったというチャプルテペック城へと入る。想像以上に時間がなく、ほとんど一瞥だけで通り過ぎるという感じだったが、屋上の庭やステンドグラス、調度品などは、できることならじっくり見たいものであった。

 急いで引き返し、再び空港へ。これといったトラブルもなく、6時半ごろにはメリダ空港に到着する。空港のインフォメーションで一番安い宿を紹介してもらうと、280ペソだと言われたので、あきらめてガイドをたよりに自分で探すことにする。また、メキシコに限った話ではないだろうが、飛行機というものに金持ちの乗り物というイメージが強いらしく、市内の中心地から空港へのアクセスはあまりよくはなく、『飛行機に乗る金があるならタクシーぐらい使えよ』とでも言わんばかりの感があり、メリダの中心街へと向かう手段は、タクシーか一本のバスだけだそうである。昨日、空港からのタクシーに乗ってどう考えても金を損したばかりである。まさか今さら再びタクシーを利用するわけにはいかない。インフォメーションで市街へのアクセスを聞き、79番のバスに乗れ、と言われたので空港から出てバス乗り場を探す。空港から出るやいなや、まずすぐにその暗さで多少不安になり、バス乗り場がわからずにさらに不安になる。適当にその辺にいる人を捕まえ、何とかバス乗り場を聞くも、他に待っている人がいなくてさらに不安になる。

 停まる気などないかのように通り過ぎるバスを凝視し、そのフロントに書かれた数字を判別しようとするのだが、そもそもこの暗い中、ヘッドライトギンギンで突っ走ってくるバスのフロントに、ただのペンキで書かれた文字を読み取るのは容易ではなく、何度か『ああ、今通り過ぎたのは○○番だったなぁ』と、通り過ぎてしまってから思い起こせた程度である。おいおい、こんな状況で本当に79番が来た時に、バスを停められるのかぁ?と、またもや不安になる。(あちらのバスは、手を振るなりなんなりして、自分からアピールしなければ停まってはくれないのが当たり前である。)そんな中、待ち始めて30分ほどたったころ、一台のバスが通過。79か99か少し迷ったが、もう待つのも疲れたし、手を挙げてバスを停め、乗り込む。先払いで4ペソ。中は雑然としており、乗り込んでくる人も多く、メリダ市内行きで正しいのだろうと判断する。市内へは45分ほどらしく、しばらくの間、決して乗り心地のよくないバスに揺られる。40分ほどしたころから、市街というだけに栄えているところを見かけたら下りようと窓から外を見渡すが、一向にそれらしき場所は見られない。とりあえずそのまま乗り続けていると、折り返し地点らしきところに到着。今来た道を引き返し始めたようである。これはやばいなぁ、さっぱりわかんねぇや、どうすんべ、と困惑するが、とにかく自分ひとりで何とかしなければならない。ガイドブックのメリダの地図を睨む。メリダ市街の住所は番号で表された道路で表されており、道路の番号さえわかれば現在位置が判別可能なようである。窓からかすかに見られる道路の標識から、現在位置を判断することにする。目的地は63番と66番の道路の交差点付近である。このままバスに乗り続け、出来るだけ目的地に近そうなところまで行ってみることにする。ふとみると、60×59の交差点を発見。ここからなら十分に歩いていけるだろうと、下車する。

 地図をたよりに、63×66の交差点のほうへ歩いてゆく。途中、地図にはない空き地も遮二無二突っ込んでいく。空き地を抜け、道路の標識を見ると、そこに書かれているのは54×10の標識。ん?どういうことだ?と、しばらく理解に苦しむ。再び地図を凝視、方向に間違いもなさそうである。もう一度引き返してみるが標識の見間違いもなさそうである。いよいよ混乱する。どうやらこれは『迷った』というやつだよなぁ、と冷静に状況を分析、今夜は長くなりそうなのでサンダルを脱ぎ、トレッキングシューズに履き替え、臨戦態勢を整える。ああ、星がきれいだなぁ、という現実逃避もほどほどに、とにかくもうしばらく歩いてみることに。それでもしかしやはり一人ではどうにもならなさそうである。また、人に助けてもらわなきゃなぁと思い、家の前で夕涼みをしているおっちゃんに道を尋ねることにする。英語、日本語、北海道弁、関西弁、色々使ってみたがおっちゃんも要領を得ないらしく、おっちゃん曰く『マエストロ』のところへ連れて行かれる。マエストロ…指揮者?と思いつつも、教師か何かのことかなと納得し、おっちゃんに導かれるまま、ちょっと豪華な家へ。そこのおねーさん(マエストロ?)から英語で道を聞く。例えて言うなら、新川2−5と新琴似2ー5を間違えたような、どうやら完全に見当違いのところにいるらしく、中心街へ行くバスに乗れ、と言われる。(と言っても、太い通りに出て、通るバスをいちいち捕まえて『せんとろ?』と聞け、といういやはや非常に合理的な方法を教わったのだが。)セントロはダウンタウンの意らしいのだが、マエストロは中流から上流の人なのだろうか、やたらとダウンタウンには気をつけろと念を押されるし、娼婦に会っても何が何でも断れと強く言われる。『娼婦』などという単語は英語でも知らないし、マエストロもスペイン語で言ったようなのだが、それでも理解してしまうあたり、自分の嗅覚もなかなか…と、我ながら可笑しくなる。
 ひたすらグラシアスを連呼し、マエストロの言うとおりにとにかくバスを捕まえ、セントロ?と尋ねる下手な鉄砲作戦を決行する。30分ほどたって、ついにセントロ行きのバスを発見。バスの運転手も、セントロにつくと教えてくれるなど、非常に人に親切にしてもらった一日だった。旅の醍醐味と言えばそうなのかもしれないが、出来れば人に迷惑ぐらいはかけないで旅をしたいものである。徒歩でホテルに向かう。結局宿に着いたのは10時ごろ。安堵したのかそういえば夕食もまだだったなと思い出し、宿の近くでタコスなどで適当に済ませる。空腹のせいか、味もなかなか。明日からの遺跡めぐりに備え、食事後すぐに宿に戻り眠る。



3月5日
 5時半起床。90ペソという宿代を考えれば、ノブが二つあるのにどちらをひねっても水しかでないシャワーを差し引いても、まぁ、十分な宿であった。強力すぎるファンのおかげで昨日の夜に洗濯しておいた服も乾いたようである。6時に宿を出発。フロントのにーちゃんはまだ寝ており、なにやら憮然とした表情だったが、かまわずにチェックアウト。さらには荷物まで置いていっていいかと頼む。荷物を預け、長距離バスターミナルへと向かう。6時半のバスということでかなり急いで歩き、急いで乗り込んだのだが、バスの中で適当に食べようと思っていた朝食を買い忘れてしまう。ここはじっと我慢の子。

 今日の予定は、まずメリダから東のチチェン・イツァー遺跡へと向かい、見学。再びメリダへと戻り、今度は西へと向かい、ウシュマル遺跡を見学、あわよくばさらに西へと向かい、カンペチェの町で宿泊というものである。かなりの強行軍となりそうだが、いざとなればウシュマル宿泊という手もある。まだほとんどメキシコの遺跡を見ていない段階での、紙上で立てた予定なのでなんとも言えないが。

 8時半ごろチチェン・イツァーに到着。はじめて大規模な遺跡群というものを見たわけだが、ただただ溜息が出るばかりである。遺跡に入るとすぐに見えてくるエルカスティージョと呼ばれるピラミッドは、数字に表されると『高さ25メートル』というだけのものであるが、その側によって実際に見上げてみると、その傾斜の急さもあいまって、遺跡の中心である神殿としての圧倒的な存在感を示している。隣で見上げていたフランス人の老夫婦は『私たちは、下から見上げるだけね』と言っていたが、確かにこれを登るのはなかなか容易ではなさそうである。気合を入れ、91段の急な階段に一歩を踏み出す。運動不足の身には辛く、太ももがプルプルいい出しそうである。途中、景色を見回すふりをして一息ついて、何とか頂上へ。眼下に広がる景色と、遺跡群と、涼しい風は、ここまで登ってきた苦労を吹き飛ばしてくれる。ふと思い浮かぶのは、『今も昔も、人間は高いところが好きなんだろうなぁ』という、なんとも陳腐な感想である。頂上の神殿をしばらく見学し、どうやってかこんなところまで登ってきたイグアナと、やたらとそれにこだわり、一緒に写真を撮ってくれないか?と頼んできたにーさんの写真を撮り、またもや気合を入れなおし、階段を下る。下りきったころには、少しだけ太ももがプルプルいっていたのは内緒である。
 他の建造物も見学するが、遺跡の規模、遺構の状態、残された装飾と、どれも興味は尽きない。強いて文句を言うならばとにかく太陽の光が強いということである。まだ9時過ぎなのにこの暑さとは、少しばかりメキシコを侮っていたようだ。洞窟のような内部の建造物や、石壁に残されたレリーフ、機能も形状も独特な天文台など、これでもかといわんばかりに次々と繰り出してくるチチェン・イツァーだが、その中でも千本柱の神殿と聖なる泉セノテの二つは抜群である。遥か先まで数え切れないほどの柱が黙々とたたずんでいる千本柱の神殿は、不気味と言えるほどのものであり、また、その柱の足元の白い砂が強烈な陽光を反射して白く輝いているのも非常に美しい。聖なる泉セノテは人工のものではなく、地面の陥没という自然の現象によって円筒形状のくぼみが作られ、その底に水が溜まり泉が出来たものなのだが、その奇妙な造形から引き起こされる神秘的な感情は古今変わりはしないのであろう、宗教的な意義を与えられ、いけにえを投下する地となったものである。どちらも思わず口を開けたまま見入ってしまうほどのものであった。
 11時ごろ、遺跡を後にする。暑さにやられた部分もあるのだろうか、アイスなどを食べて少し休憩を取る。11時半のバスでメリダへと戻る。11時からエルカスティージョの内部の神殿には入れたということを後から知り(メキシコの大規模ピラミッド型神殿は、内部にいくつかの神殿を含んでいるものが多い)、もったいない事をしたなぁと、駆け足の旅行であることを改めて悔やむ。こんなチャンスはなかなかないのだ。

 2時前にメリダ到着。他の乗客が大量に降りたところで降りてみたが、宿からは少し遠かったようだ。腹が立つほどの快晴でクソ暑い中、急いで宿へと向かい、預けていた荷物を受け取り、再びバスターミナルへと向かう。ウシュマル行きの次のバスは2時35分発ということで、すぐに出発となる。またもやロクに食事をとる間もなくバスに乗り込む。
 ウシュマルまでのバスは1時間45分ほどだが、窓から差し込む日光は相変わらず厳しいし、そのため寝付くことも出来ない。先ほどの遺跡を急ぎ目で回ったせいか、太陽の光と熱にやられたか、まともに食事をとっていないせいか、体がだるくなってきた。まずいなぁ、まだ旅行は始まったばかりなのになぁ…どうするべきだろうか。4時15分ごろにウシュマル到着。体のけだるさは頂点に達し、また見学時間は5時までということで遺跡を見て回る時間もなさそうなので、今日はウシュマルで宿泊することにする。というよりも、とにかくいち早くシャワーを浴びて、横になりたいというのが本音である。もともとここウシュマルは町などではなく、遺跡だけが存在しており、それを見学に来た人のためにホテルが2、3件ほどあるだけのところで、当然ホテルは値段が張るのだが、まぁこの状況では、仕方がないだろう。ホテル代は70ドルということで、かなり手痛い出費だが、ウェルカムドリンクつき、エアコン完備、プールつきなどと、確かに豪華なリゾートホテルといったたたずまいであった。とりあえず遺跡入り口で食事を済ませ、すぐさまホテルに戻り、6時ごろには休むことにする。温かいシャワーが気持ちいい。

 タクシーや宿代などに必要以上に金を使いすぎていることと、バス代も遺跡の入場料も尽く値上がりしていることと、なかなか不安が多い。体調もどこまで回復するだろうか、心配である。


3月6日
 温かいシャワーと、十分以上の睡眠のおかげか、いくらか体調も持ち直したようだ。昨日買っておいた菓子を朝食として、8時からウシュマルの遺跡へ入場。
 チチェン・イツァーと比べると、遺跡全体の範囲は狭いのだが、その分遺構が非常に密集しており、また、小高い丘や急な傾斜が多く、それぞれの建造物に上るのも相変わらず楽ではない。それでも、広い平地に遺物が点在していたチチェン・イツァーとはまた違い、うっそうと茂った草木に覆われ、いまだ完全に修復がなされておらず、そのため半ば廃墟というものに片足を突っ込んでいるにもかかわらず、過度ともいえるまでのレリーフやモチーフによって装飾された姿を残しているこの遺跡群は、かえって1000年以上という時間の流れに感慨を寄せさせるものである。どれもこれもが素晴らしい、が、しんどい。9時半ごろまでの見学にもかかわらず、太陽は本気モードだし、少し歩いては汗をかき、という状況である。ホテルに戻り、再びシャワーを浴び、出発する。
 少し歩き、国道に出て、バスを待つ。ホテルで聞いたところによると、次の目的地のカンペチェ行きのバスは10時ごろに来るとのことだが、10時になっても一向に来る気配はない。というよりも、車自体がほとんど通らない。遺跡でも見かけた二人組みの外国人の旅行者もバスを待ちでやって来る。彼らが言うには、バスは10時半に来るそうだ。いくらか話していると彼らはドイツから来たという。大学で二年間学んだドイツ語がついに役立つときがきたのである。『さあ、食らうがいい、俺のドイツ語を!!』

 ・・・・・・(諸事情により中略)・・・・・・・

 いくらかあきらかにおぼつかないドイツ語を駆使してみるが、彼らはきょとんした表情を続けるだけで、まったく通じている感じがない。あきらめて、『ドイツゴシッテマスヨ、グーテンタークニ、ダンケシェーンデショ?』と英語で言うという始末。彼らもそれはわかったようで、僕らは日本語は知らないんだ、何か教えてくれよ、みたいな流れに。とりあえず、こんにちはとありがとうを教えてみるが、今思えばこんなおいしいシチュエーションで、もったいない事をしたものだ。とにかく、そのときに考えていたことといえば『所詮、ドイツ語は(当時)可しかもらったことなかったさ』という、敗者の弁だけである。10時40分ごろになってバスが来る。なにより直射日光から逃れられたことがありがたい。

 二等バスのためなのだろうが、想像していたよりもずっと時間がかかり、午後2時を過ぎてようやく目的地のカンペチェに到着する。とりあえず、旅の予定としてはいくらか遅れているので、まずは次の目的地であるパレンケへ行くバスの時刻を確認する。パレンケ行きのバスは夜11時以降発となっており、今日の午後はカンペチェの町をゆっくりと回ることが決定となる。深夜バスを利用することで、行程が遅れている分を修正するのである。

 このカンペチェの町はメキシコ湾に面しており、スペイン軍の征服の後、最初に作られた要塞都市なのだそうだ。海賊(いわゆるイギリスによる私掠船のことである。こういう高校の世界史で文字だけで学んだものが、実際にその土地の生活と絡み合って突然登場するから、旅行はやめられない)の襲撃に対抗するために作られた砦や、城壁の一部、そして300年も前の町並みが残っており、そんな情報をガイドブックから読み取るだけで興奮を覚えてくるほどである。城塞都市…ああ、なんと素晴らしい響きなんでしょうかねぇ…。
 昼食を済ませ、徒歩で砦から城壁を経て、市場を抜け、ソカロ(町の中央にある公園)へ。清潔で整然としており、カラフルな町並みは見ていて非常に清々しい。ソカロに隣接する白亜のカテドラルを見上げつつ、相変わらずの暑さのため、ベンチで少し休憩をとる。今日と明日は夜行バスでの宿泊の予定なのだが、既に汗をかなりかいており、自分でも汗臭さを感じ始める。海門と呼ばれるメキシコ湾に面する側の城門を通り抜けメキシコ湾に至る。メキシコ湾の潮騒と潮の香りで時間をつぶし、再び海門のほうへと引き返す。ガイドブックによると、ここカンペチェには東西二つの砦があるそうで、そのうちの一つ、東のサンホセ砦ではかつての銃やサーベル、帆船の模型などが展示されているそうだ。
 …銃、サーベル、帆船…役満である。古い武器も好きだし、帆船も好きだ。ほんとうになんと素晴らしい町なんでしょうかねぇ…。サンホセ砦は歩いていくには遠すぎるため、バスを利用する。バス停らしいところを探し、その辺を歩いている人に、サンホセに行けるか?と聞く。東へ行く側の道路で聞いたのだが、反対側へ行けと言われその通りにする。ここでも、バスの運転手に逐一聞く方法をとる。3度ほどバスを止めて聞いてみると、『ホセファ』と書いているバスに乗れと教えられる。正確には教えられたと解釈する。さらにしばらく待つと『JOSEFA』とかかれたバスを見つける。ああ、『JO』は『ジョ』ではなくて『ホ』なんだよな、と思い直しバスに乗り込む。サンホセ?と運転手に聞くと、Siとのことである。20分ほど乗り、運転手のおっちゃんに、ここだよ、と教えられたため下車する。砦の近くは公園のようになっており、犬の散歩に来ている人がやたらと多い。期待していた内部の展示品だが、残念ながらかなり貧弱であった。入場料24ペソを考えると、割に合わないのは明白なような気がする。他に見物人もいなかったわけだし。砦から眺めた夕日はなかなかよかったし、マスケット銃が見れたので、まぁ、よしとしよう。降りた場所で再び待っていると、しばらくしてバスがやって来る。乗り込んでみると、さっきと同じバスだったようで(カンペチェのバスは周回のようだ)、運転手も相変わらずさっきのおっちゃんだった。

 長距離バスターミナルの付近でバスを降り23時30分のパレンケ行きのチケットを購入。夕食のため再びソカロ付近へと行く。するとなにやらソカロには出店が並び、ライトアップされた噴水のショーやダンスのショーが行われ、ジャグリングをやっている人などもいて、たくさんの人が集まっている。近くの店で食事をした際に店員に聞いてみると何のなのかはわからないがとにかくフェスティバルなのだそうだ。たまたま立ち寄った町でたまたまお祭りをやっているとはなんともラッキーである。食事を済ませ、陽気なソカロを見て回る。
 今日は土曜日なのだが、8時半から陸門(海門から反対側の門)で、光と音のナイトショーをやっているそうである。もちろん参加。一日中背負い続けた荷物を受付のおねーちゃんに預かってもらい、いよいよショーの開始。海賊と兵士の扮装をした二人のガイドが現れ、陸門のところでスペイン語、英語、それともう一つの何語かもわからない言葉での城壁と門の解説からショーがスタートする。門の中に入りスライド上映。ここからはスペイン語のみで、何を言っているのかさっぱりわからないが、どうやらカンペチェの町の歴史の説明のようだ。でも、やっぱりわからないので、ものすごく眠たくなる。門を出て階段から城壁の上へ。城壁の上では海賊がなにやら殺し文句だか口上だかを述べ、雰囲気をアピール。そこに兵士が現れなんともやる気のない殺陣が行われるなど、寸劇がはさまれる。どうやら笑どころは抑えられているらしく、周りの人が笑い出す。少し寂しい。城壁の内部を見学し、外へ。これでおしまいかと思っていると、どうやらこれからが第二部のようだ。城壁の外で、パイプイスに座り『太陽の何某(○×△ del solといったようなタイトルだったため、そんな意味なのだろう)』という劇を見せてもらえるらしい。
 相変わらず、スペイン語だけで進行していく劇に、こっちは取り残されっぱなしである。内容はまったくわからなかったが、『手作り感あふれる』劇であったことは間違いない。のらりくらりと進行し、4人ぐらいで衣装を変えながらやってるんだろうなと思っていたところ、最後のカーテンコールで出演者が8人もいたことが判明し、少し驚いた。それでも、他の客からは『温かい』拍手が上がっていたため、なかなかいいものだったのだろう。言葉がわからなくとも、最後のシーンでなんとも厳かな音楽と共に『カンペチェ…○×◎△◇』『カンペチェ…△×◇◎×』『カンペチェ…××◇▽○△』と繰り返されたところなどは、確かに、よさそうな雰囲気だけは伝わってきた気がしたものである。おそらく、『カンペチェ…愛と勇気と友情の町』『カンペチェ…出会いとそして別れの町』『カンペチェ…そして人は鳥になる』などと、そんな事を言っていたのだろうと、解釈する。
 終劇。お祭りそっちのけでこんなショーに参加するとは、今日の客はかなりのツワモノぞろいであったに違いない。預けていた荷物を受け取りに行くと、先ほど荷物を預けたおねーちゃんも、衣装を変え劇に参加していたことがわかった。どんなもんだろうかね、コレ。
 途中で適当に食べ物と飲み物を購入し、長距離バスターミナルへと向かう。30分ほど待ってバスが発車。通路を挟んで隣り合わせたおっさんのいびきがやたらとうるさかったのと、隣の席のけっこうかわいいおねーちゃんがやたらとこっち側にケツを突き出してきたせいでほとんど眠れなかった。


3月7日
 早朝5時、パレンケの町に到着。どう考えても早すぎである。店も遺跡も開いてはおらず、やれるようなこともないので、とりあえず、しばらくはバスターミナルで時間をつぶすことにする。ふと、周りを見回すと、なにやら黄色い本を読んでいる男を発見。地球の歩き方のようで、日本人確定である。海外旅行の間は別にわざわざ日本人と話すことはないだろうと考えているので、普段はあまりそんなことはしないのだが、あまりに暇なので、話しかける。当たり障りのない、今までたどってきたルートや、今まで行った所の情報交換などといったところを手始めにしばらく話していると、彼はメキシコシティで荷物をことごとく盗まれた現地の人にバス代と食事代を立て替えてあげたとのことで、ぜひ家に遊びに来てくれと招待されたため、その助けた人が迎えに来るのを待っているのだそうだ。なんとも怪しい話だが、自分のイタリアでの経験を思い起こし、迎えが来る事を祈る。昨日買っておいたバナナとパンで食事を済ませる。『バナナ、いります?』と聞いたが、いらないそうだ。

 7時ごろになって、パレンケの町中へ。容易に見つかったミニバス乗り場からパレンケの遺跡へ。入場時間にはまだ早いらしく、しばらく地面に腰を下ろして、観光客相手の遺跡前の土産物屋が準備をしているのを眺めながら時間が来るのを待つ。8時パレンケの遺跡に入る。もう見慣れたはずなのだが、それでも入ってすぐに現れてくる巨大な神殿は、何度見ようとも、かつてそれを建造した人たちの意思と実行力の強さに驚嘆させられるのみである。独特で特徴的、非常に存在感が強く、誰もが見上げてしまう天文観測塔と呼ばれる4階建ての塔や、見れば見るほどにユニークに思われてくるレリーフなどを見て回る。急な階段を上って息を切らせ、景色を眺めるふりをして休息をとるのも、もう手馴れたものである。
 一通り回った後、ガイド中のパレンケの地図を見ているとジャングルの中を博物館まで歩いていけると書いてある。だが、注意書きとして、強盗に会う危険もあるので乗り合いバスで行くこと、とも書いてあるのである。…こう書かれては、その道を行かないわけにはいかないだろう。当然のごとく、ジャングルの小道へ行くことに。軽い山道といった感じで、荷物持ちでは少し辛い。小川とつり橋があるなど、なんとも通っていくだけで楽しい道である。途中で発見した沢で汗臭い体を水拭きする。本当は服を脱いで飛び込みたいぐらいだが、たまに人が通るのでさすがにそれは出来ないし、環境の事を考えて石鹸の類の使用も控える。さらに進んでいくと、博物館と、他の遺跡群への分かれ道に出会い、相変わらず後先考えずに遺跡群への道を選ぶ。滝があるなど、気分はハイキングで、ついでにマイナスイオンも補充する。
 B群、C群と銘打たれた遺構群に到着。確かに規模、機能、様式などからすれば、多くの人が訪れる遺跡の中心部と比べるとその重要性はかなり劣るのだろうが、濃い緑が繁茂したジャングルの中、いくらか崩れ落ちてしまい、補修の手も回らず、木と苔に侵食された石組みの名残は、まさに秘境という語を用いるのにふさわしい。大学の考古学の授業で、教授からまず初めに、考古学が冒険であったのは19世紀までだと言われたのを思い出したが、例え踏み均された道でも、こういうものから冒険の欠片と残り香を見出しても悪くはないだろう。
 来た道を引き返し、博物館へ。パレンケ出土の遺物が展示されているが、その量にしてもそのユニークさにしても、パレンケという遺跡の価値が非常にうかがい知れるものである。むしろ遺構よりも出土した遺物にこそ、パレンケの本質と中枢があるのではないだろうかと思われるほどのものである。11時半ごろ市内へと戻る。

 遺跡から戻り、バスの時間を確認しようとバスターミナルへと向かっている途中で、どこかで見た後姿を発見する。どうやら今朝バスターミナルで会った人のようで、声をかける。バス代を立て替えてあげた人と会えたのですか?と聞くと、どうやらそんな人は現れなかったらしく、また、もらったメモに書いてある住所にも行ってみたが、そこに住んでいた人にはまったく話が通らなかったらしい。いわゆるだまされたというやつなのか、それとも、何らかの事情があったのかわからないが、彼はかなりへこんでいた。当然か…。
 彼はこれから東へ向かうということで、方向が逆なのでとりあえず慰めの言葉だけをかけて別れる。

 次の目的地オアハカ行きのバスは5時半なのでパレンケの町でのんびり過ごすことに。本当に何もないという印象の町で、暑い日中をオープンカフェでうつらうつらと過ごす。なんだか、本当にのんびりしたのが久しぶりに感じる。食事を済ませ、5時半オアハカ行きのバスに乗る。空いていたため、昨日とは違いバスの中でもいくらかは眠ることが出来た。


3月8日
 バスはひたすら峠を縫って進んで行くが、日本と違うのは窓から見える景色である。山肌に見えるのはサボテンの林である。すぽぽぽぽん!!といった感じで、とにかく気持ち悪いまでの数のサボテンがにょきにょきにょきにょきと生えているのである。
 午前9時半、オアハカに到着。実に16時間のバスの旅。ケツがもげるかと思った。とりあえず、汗臭いし、荷物を持ったまま歩き回るのはもう嫌なので、宿を探すことにする。一等バスターミナルから市内の中心へのバスに乗る。適当に歩き、今日の宿をホテルアメリカに決定する。150ペソほどと決して安いわけではないが二等バスターミナルから近く、便利なのでまあいいだろう。シャワーを浴び、シャツや下着を洗濯し、久しぶりのベッドで一息つく。
 ホテルアメリカを後にし、市場を通り抜け、二等バスターミナルへと向かう。途中電気街みたいなところを通った際に日本語が聞こえてきたためそちらを見てみると、なんとテレビの画面に映っているのはわが青春の(というか幼年の)『聖闘士聖矢』のDVDではありませんか。日本語で喋っているところにスペイン語の字幕というのはなんとも気持ちが悪いが、そう、例えメキシコであろうとも、いいものはいいのである。

 ミトラ村行きのバスに乗り、2時ごろミトラ村到着。バス乗り場から村の中を抜けてしばらく歩き、ミトラ遺跡へと向かう。店頭で機織をする民芸品である織物の店と、数多くのビンが壁一面に並ぶラム酒の店など、村というだけあってかなり閑静な印象のところである。ミトラ遺跡は、直線と直角によって成立し、精密な文様と緻密なモザイクによる装飾が施されており、今までの規模と迫力にあふれた遺跡とはまた違った印象である(チチェン・イツァー、ウシュマル、パレンケはマヤの遺跡であり、ミトラはサポテカ人によって建設されたのだから、当然といえば当然なのだが)。遺跡全体の規模もこじんまりとしており、遺跡に坂も少なく、比較的楽にのんびりと回れるところであった。再びバスに乗り、オアハカへと戻る。

 オアハカの付近にはアメリカ大陸最大の樹があるエルトゥーレと、ミトラと同じくサポテカの遺跡であるモンテ・アルバンがあるのだが、時間を考えると今日それらを回ることは不可能のようである。明後日10日にはメキシコシティを出発、帰国となるので、メキシコシティと周辺の見学を考えると、出来れば明日早くにはメキシコシティについていたいところである。いよいよ本格的にルートと時間を考える必要がありそうだが、とりあえず今日のところはもう宿も取ってしまっていることであるし、オアハカ観光を楽しむことにしよう。
 ソカロを抜け、世界文化遺産にも登録されているサントドミンゴ教会へと向かう。一世紀近い歳月をかけて建造されたそうで、内部も素晴らしい装飾が施されているのだが、イタリアともまたいくらか趣が違っていいものである。教会の近くになにやら舞台が設置され、いくらか人が集まっているので、そちらへ行ってみると、『フラメンコフェスティバルインオアハカ2004』と書かれている。どうやらフラメンコのフリーショーの様である。とりあえず、その辺の人たちにまぎれて地べたに腰を下ろす。生歌、生演奏、生フラメンコをはじめて見学。なかなか。
 だいぶ暗くなってきた上、肌寒くなってきたので、フラメンコもそこそこに宿へと引き返す。途中で若い兄ちゃんがなにやら自分のシャツを指さしながら色々言ってきた。どうやら、シャツとシャツを交換しようと言っているようだ。何?シャツの交換だなんて、君と僕は翼くんと日向くんですか?しかしまたなんで…と考え、自分のシャツを見てみて納得する。そのとき着ていたシャツは、黒地の背中に『仕事人』と白の筆文字で書かれた、京都のお土産屋で購入した『仕事人Tシャツ』である。そうか、君にもわかるか、この良さが。そうだろうなぁ、例え漢字の意味がわからなくとも、心意気が伝わってきたんだろう?それを感じ取るとは、君はかなりのものだ。
 だが!!このシャツだけは譲るわけにはいかないんだよ。すまんね。

 第一、君のシャツ、ちょっと薄汚れすぎてるんだよねぇ…。

 その青年と心と心のシャツだけを交換し(ナイスゲームだったと自負している)、適当に選んだ店で食事を済ませ、宿へと戻る。


3月9日
 6時半起床。昨日の夜、今日と明日の飛行機に乗り込むまでの予定を考えるが、昨日行くのをあきらめたアメリカ大陸最大の樹をどうしても見てみたくなり、明日の予定がかなり厳しくなりそうだがエルトゥーレリベンジを決定する。2等バスターミナルへと行く途中で、エルトゥーレ村行きのバスを発見。一応車掌に確認して乗り込む。20分ほどで到着。こんなに近いのならば昨日のうちに行っておけばよかったかなと思われたが、今さらそんな事を言ってもしょうがないので、何はともあれ見学料3ペソを支払い、その樹がある教会の内部へと入る。
 そもそも、教会の内部に入る前からなんともまぁやたらと巨大な青々と茂った葉の塊が見えてはいたのだが、その近くに行ってみて改めてその大きさに度肝を抜かれる。高さ40メートル、幹周りは58メートルほどらしいのだが、樹というものでそれだけの大きさというのは、なかなか数字からだけでは想像するのも難しいもので、実際に見上げた際の印象はとにかく圧巻の一言である。樹齢2000年は、かつて見た屋久島の縄文杉と比べるとまだまだ半分の若造に過ぎないとも取れるのだが、うっそうとした山の中で多くの杉と共に見たそれと比べて、周囲にコレといった大きな木もなくいきなり現れる、一本だけで孤高を体現するかのようにどっしりと根を下ろした糸杉はまた格別である。柵に覆われてではあるが、縄文杉とは違いその周囲をぐるりと回ことが出来るのでその大きさを改めて思い知ることが出来る。

 エルトゥーレを後にし、9時半ごろオアハカへと戻る。そろそろメキシコシティに向かったほうがいいのだが、欲張りな性格の部分が強く出てきてしまったようで、モンテ・アルバンの遺跡へも行ってみたくて仕方がなくなる。こうなると、気ままな一人旅、妨げるものは何もないわけで、モンテ・アルバン行きのバスへと乗り込む。
 11時前にモンテ・アルバン到着。なかなか急な山道を登ってきただけあって、オアハカの盆地が四方に広がる、なかなかの絶景である。遺跡内部に入ると、すぐに非常に多くの建造物が目に飛び込んでくる。一部の隙もないかのように狭い範囲に整然と、あまりに正確に直線的に石造りの建物が配置されている。修復の手が十分に回っているためなのだろうが、それにしても元来がそうだったということなのだが、非常に直線的な遺構群で、中央アメリカ最古の遺跡であるということも関係あるのであろうか、壁面にはミトラなどのような華美な装飾は少なく、かえってそれがまたこの遺跡の素朴さをいっそう引き立てているかのようである。その中で踊る人々のピラミッドの壁面にある、生贄にされる人々を描いたものであるとされるレリーフはかなりの異彩を放っている。が、どうやら遺跡に設置してあるそれは複製らしく、実物はここの博物館やメキシコシティの人類学博物館に保存されているらしい。メキシコの遺跡の壁面に残されたレリーフは、風化の防止であるのか盗難対策であるのか引っぺがされて博物館に移動させられているものが非常に多い。博物館にそれだけで置かれるよりも、遺跡に付属したままで見ることができれば…と思ってしまうが、これも仕方のないことなのかもしれない。
 ピラミッドに登り、遺跡全体と、オアハカの盆地を眺める。眼下に広がる景色の素晴らしさこそが、こんな高地にこの都市が築かれた理由の一つなのだろうなと納得させられてしまう。

 オアハカ市内へと戻り、一等バスターミナルへと向かう。2時発のメキシコシティ行きのバスに乗る。バスもすいていたため、楽な姿勢をとることが出来たので、それほど辛い移動ではなかった。ただ、バスの中で流される映画の音声がやかましいのが難点であった。

 午後8時過ぎメキシコシティ到着。思っていたよりもいくらか早かった。バスターミナルのファーストフード店でタコスで食事を済ませ、宿へと向かう。ガイドブックによるとかなり安い日本人宿があるそうで、そこに行ってみたのだが、個室は満室のようだった。ドミトリーに泊まる気はないので、そこをあきらめ、その近くの宿に泊まる。それほど値段は変わらないし、別に問題はないだろう。シャワーを浴びて、明日の飛行機に乗り込むまでの予定を立てる。明日メキシコを後にする飛行機は午後4時ごろ発である。明日はテオティワカン遺跡とメキシコ人類学博物館の二か所を回りたいのだが、空港には2時ごろには着いていなければならないため、かなりの急ぎ足の見学となる。場合によってはどちらかをあきらめねばならなくなるかもしれないが、どちらもメキシコ旅行としてはかなりのハイライトである。なんとかして、両方とも十分に見て回りたいものだ。


3月10日
 5時半起床。昨日買っておいたパンとジュースで朝食を済ませる。6時過ぎ北方面行きバスターミナルへと向かう。ホテルを出たところで、いきなり見慣れた顔と出会う。パレンケで会った、現地の人にバス代を立て替えたけでども、結局そのまま金を返してもらえなかったにーさんである。互いになんとまあ偶然と驚きあい、どちらも目的地がテオティワカン遺跡で一致していたため同行する。7時発、テオティワカン行きバスに乗り、8時少し前に到着する。
 このテオティワカンの遺跡、とにかくその規模が半端ではない。今までいくらかの遺跡を回ってきて、もうだいぶ見慣れたよなぁと自負していたが、ここの巨大さはそんな予想をあまりにも簡単に覆してくれるものであった。遥か彼方に見られる巨大な月のピラミッドと太陽のピラミッドはまるで一つの丘のようであるし、死者の道と呼ばれる遺跡を南北に貫く道に沿って延々と建造物が続いていくのは、眺めるだけで、『これを歩いていくのか…、やめません?』と思わず口をついて言ってしまうほどのものである。とにかくせっかく来たのだから、気合いを入れなおし、バス停があった遺跡の南側から遠くに見える月のピラミッドへと向かって歩いていく。ケツァールコアトルの神殿や、ケツァールパパロトルの宮殿、それらを装飾するレリーフを眺めつつ進んでいく。途中いくらか上り下りをしなければいけないところがあるし、8時半ごろから太陽が強くなってくるし、それに伴って暑くなってくるため、だだっ広い遺跡の見学が段々としんどくなってくる。
 そうこうしているうちにテオティワカンの北端で、おそらく最も重要な施設であったであろう月のピラミッドに到着。近づくにつれて、いよいよその感が強まっていたのだが、あまりに巨大な、見上げれば山とも称しうるほどのものである。お互い顔を見合わせ、相手が『じゃあ、下から見ましたし、引き返しますか』と言い出すのを少し期待しつつ、どちらもそれを言い出すことが出来ず、ピラミッドに登り始める。階段自体もそれほど緩やかではなく、段数は多いし、何より互いに20歳を越えた身、溌剌に登るというわけには行かない。それでもそろそろやばいかな、と思い出したころ何とか頂上に到着。真下に死者の道がまっすぐに伸びていくテオティワカンの全景が一望できるその眺めは、ここまで苦労して登ったことと、吹き抜ける乾いた風とも相まってこの上なく爽快である。ごつごつとした岩肌に腰を下ろし、ただぼーっと辺りを見回す。左側に見える太陽のピラミッドに登っていく人の列ははまるで蟻のような黒い点にしか過ぎない。下から月のピラミッドを見上げる人もまるで豆粒のようで、向こうからもそう見えているのだろう。ずっとここでのんびりしていたいという気もあるが、あまり時間もないのでピラミッドを下りる。
 少し南側へと引き返し、テオティワカンで最大、世界でも3番目に大きいとされる建造物である太陽のピラミッドの目の前まで来る。改めて見上げてみると、その巨大さはやはり抜群であり、登る気を失せさせることもまた抜群である。それでもここまで来ておいてまさか登らないことなんてありえないよなぁ…と、気合いを入れなおし(月のピラミッドでの消耗を考えると、そろそろ気合いだけではどうこうできなくなってきたような感もあるが)、248段あるという階段の第一段に足を踏み出す。しんどい。太ももがプルプルいい出す。途中二度ほど呼吸を整え、何とか登りきる。この頂上からの眺めも、月のピラミッドのようにまた格別である。涼しい風はいいのだが、突き刺すような陽光が厳しい。ましてや時間に押される身、展望と達成感もそこそこに、再び急な階段を下る。かなり急ぎ足で回り、10時半テオティワカン遺跡を出発する。

 11時半にメキシコシティ到着。遺跡を共に巡ったにーさんと別れ、ほとんど時間はなさそうだがメキシコ国立人類学博物館へメトロを乗り継いで向かう。ガイドブックにはメトロの駅から徒歩5分などと書いていたが嘘も甚だしく15分ほどかかる。結局12時半ごろになってようやく到着。その内容は圧巻で壮絶、多種にして多様、壮大で細緻、華麗にして荘厳といったもので、メキシコ中で発掘された遺物が所狭しと並べられている。アステカのカレンダーとされる太陽の石やテオティワカンの雨神像など、とにかくじっくりと眺めていたいものばかりである。しかし、結局何もかも一瞥で通り過ぎるだけで終わってしまい、あれほど巨大で濃密な博物館もほんの一瞬ともいえるような30分の滞在で終わってしまった。急いで駅へと引き返し、メトロに乗り込み、空港へと向かう。空港に着いたのは2時半ごろで、余裕があったとはいい難いところであった。

 飛行機に乗り込み、メキシコと別れを告げる。とにかく熱くて長い時間だった。
 これで、メキシコ旅行は全てである。



 のだけれども、ちょっとだけ、日本に帰るまでの続きの話を。
 午後4時メキシコシティ発、午後7時半アトランタ到着(メキシコ時午後6時半)。アトランタ発成田行きは翌日午前10時発なので、とにかく時間が余った。お金もないわけだし、空港内のソファーで時間をつぶして朝を待つべきなのだろうが、なにぶん欲張りな性格、このまま空港で時間をつぶすのも退屈だし、アトランタの町に繰り出そうかなぁ、と、ふと考えてしまう。どうしようか迷っているうちに時間は9時を回る。行くなら早いうちでないとなぁと考え、思い切っていくことに決め、標識に従い電車でアトランタ市内へ向かうことにする。電車の切符を買うのにも手間取り、切符ではなくコインが出てきて、それを切符として使うことに少し戸惑い、何とか電車に乗り込む。
 そもそもまったく想定外のことで、アトランタのガイドブックなど持っているはずもなく、駅に書いてあった、なにやらホテルが集まっているところへと向かうことにする。電車の中は黒人さんの数、割合が高く、なにやら見られているような気がするが、ここはなめられてはいけないと、ふてぶてしい表情をとったりしてみる。Peachtreeという名のホテルが集まっているらしい駅に到着。ほとんど誰もいないような駅から出て、駅のそばにあった地図を見てみる。どっちがどっちかよくわからないで眺めていると、いきなり黒人さんが近づいてきて、『どこから来た?』と、声をかけてくる。人通りもほとんどない夜10時ごろ、アメリカはアトランタで、黒人さんに声をかけられて、覚えるのは恐怖だけであった。とりあえず、『わかんね』と日本語で答え、そそくさとその場を後にする。とりあえず進んでいると、またもや別の黒人さんに声をかけられる。ますます恐怖は募り、今度は無視の方向で。いや、本当に恐ろしいもので、こういう状況では色々とロクでもない悪いことばかりを想像してしまうものである。頼むからかまわないでおくれよ。
 何とか目的地としていたホテルに到着。シングルの料金を聞くと、89ドルとのこと。財布の中身は70ドル。支払能力なし。もっと安いところはないかと聞くと、56ドルだというところを紹介してくれる。『住所は?』と聞くと、『そこまではわからないから、電話をしてやるから自分で聞け』、といわれる。受話器を受け取るが…まったく何を言ってるのかわからない。目の前の人と会話をする分には身振り手振り何とか英語もわかるものだが、受話器を通じてのかすれた声は理解することが出来なかった。受付の人に、『わからないから代わりに聞いて』とお願いし、何とか住所を知る。まぁ、住所がわかったといっても、それがどこのことかわからないんですけどね。地図でどこにあるのかと聞くと、『キャブを呼んでやるから待っていろ』と言われる。『歩いていけないのか?』と聞くと、『そんな危険なことはやめておけ』と一喝される。

 …やはり危険だったんですか…?

 しばらく待つとイエローキャブが到着。受付の人たちにひたすらありがとうを連呼。むこうは『Be careful』を連呼。だから、そういう不安になるようなことは言わないで下さい。しかも、かなりの真顔で。
 すぐ近くだったようで、安いほうのホテルに到着。こんな距離でも、キャブを呼ぶんだなぁと、感慨にふけり、ホテルにチェックイン。日本を出発して以来、初めてのバスタブ付きの風呂。内装もベッドもなかなかである。部屋に入ると思わず『怖えーっての』と叫んでしまった。風呂に入り、何とか興奮を落ちつけ、眠る。


3月11日
 明るいうちはさすがに問題ないだろうということで、電車の駅まで歩いていき、空港へと向かう。空港で食事を済ませるが、メシがまずい。結局、アメリカとの初遭遇の印象は、怖くて飯がまずいというだけのものになってしまった。
 無事、飛行機に乗り込み、太陽を追っかけながら飛ぶせいで明るすぎるし、空調が利きすぎて寒すぎるし、ほとんど寝付けなかった。


 なにやら大量に集まっており、牌をかき混ぜる音でやかましい遊び人の家に一泊し、京都へと戻る。やたらとトイレが近かったが、変な菌とかをもらってきてない事を祈るのみである。