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第二回 
〜イタリア珍道中の巻〜


そもそも、長い夏休み、旅行ぐらい行っておかないともったいないなと普段から思っていたことに改めて強く思い当たり、実際に行動を始めたのが9月の10日を過ぎてからであった。それから、本来はこのような旅行のために始めたにもかかわらず第一の障害になってしまったバイトのシフトの調整、それに見合った格安航空券探し、いくらかの余裕を持たせた衣類の詰め込みと非常にあわただしい準備を経て、今回のローマ4泊一人旅はスタートした。折角イタリアまで行くというのにたかだか4泊どまりというのがやはり不満であったが、10月1日から大学は始まるし、バイトもそうそうあけることはできないうえ、航空券もこれが時間的にも経済的にも最も条件にかなったものであったので仕方がない。イタリアといえばフィレンツェにヴェネチア、ナポリ、さらにはシチリアと行ってみたい所は数多くあるが、今回は4泊、ローマだけをのんびりと観光するにはちょうどいいのかもしれないと納得することにした。9月23日出国、24日〜27日は現地宿泊、28日現地発で、29日の夕方には関空に到着している予定であった。ブルジョワジーな旅行など所詮夢のまた夢。空港で両替したのは500ユーロ(1ユーロ≒130円)。航空券代と合わせても大体18万円ほどの予算で上がる。まぁ、こんなものでなんとかしよう。


9月23日
 パスポート忘れなどといったそれらしいハプニングもなく、時間にも十分に余裕を持って関空に到着。そばを食べ、しばらくの日本食との別れの儀式を終える。午後の5時ごろ関空発。今回の航空券はタイ航空で、行きも帰りもバンコク経由。いくらか時間は余計にかかるが、値段を考えるとそれぐらいは大した問題ではないだろう。機内食もなかなかのものだった。経由地のバンコクには午後11時ごろ到着。時差は2時間(日本のほうが早い)。乗り継ぎは、本来翌24日の午前0時ごろの予定だったのだが、遅れが出ているようで、出発は午前2時ごろとなっていた。そうとは気づかずにとっととゲートをくぐってしまっていたので、空港内で時間をつぶすことも出来ずに、仕方なくぼーっとして過ごすはめになる。日本人も結構多いようだが、別にどうでもいいです。さすがにまだ全然日本は恋しくありません。


9月24日
 長時間の飛行機の中でいい加減尻の痛さに腹が立ちそうになったころ、ローマ、フィウミチーノ空港、別名レオナルド・ダ・ヴィンチ空港に到着する。当初の予定から2時間遅れほどの午前10時ごろ。時差はバンコクから5時間、つまり日本と比べて7時間の遅れ。時間を得できる、などと考えるのが普通なのかもしれないが、時間によって示される以上の尻の痛さのほうがよほど印象に残った。荷物が出てくるのがかなり遅くていくらか不安にさせられたがちゃんと出てくる。一人旅にその手のアクシデントはいりません。

 空港の駅から電車でローマ市内へ向かう。どうやらレオナルドエクスプレスというものがローマの中心駅であるテルミニへの直通らしい。約8ユーロ。自動券売機で買ったのだが、説明はイタリア語。しかも、出発駅だとか目的地だとか枚数だとかなにやら入力しなくてはいけない。かなり悩み、幾度かやり直しをしながらも何とか購入に成功。苦心して買った切符を自動改札機にいれる。自動改札といっても、出発時間等を切符に記録するだけの機械で、別に切符を入れないと乗り場にいけないようなことはない。そのため無賃乗車などは一切問題なく行うことが出来る。見ていると、改札の機械に切符を入れていない人がほとんどのようである。定期券のようなものを持っているのか、それが当たり前のことなのか、ほかの手段があったのかわからないが、おおらかであろうことは間違いなさそうだ。レオナルドエクスプレスはなかなか乗り心地がよく、快適な30分だった。ただ、気になったのは5分ほどの遅れが出たこと。海外の電車はよく遅れると聞いていたのでこの先、いくらか不安になる。

 ローマテルミニ駅に到着。まずはガイドブックに載っていた駅付近で一番安い宿へと向かうことにする。そもそも駅のどこから降りたのかわからず、かなり迷うことになったのだが、古臭くていかめつらしい石の建物や、車を制止して道路を横断する人たち、書いてある内容は想像にまかせるしかない看板など、あらゆる非日常が一度に飛び込んできて、迷うということ自体が楽しく感じられる。何とか目的地の宿に到着。一泊35ユーロとのことだが2泊だというと一泊30ユーロになった。もっと値切れば下がったんだろうか?ちなみにこの宿、ペンションジャマイカは(向こうでは安宿のことをペンションというらしい)、部屋はベッドと机と洗面台だけいう簡素なつくりで、シャワートイレ共用、朝食つき、フロントにでかい犬つきである。宿のおばあちゃんはイタリア語オンリーだが、出発する前にスリに気をつけなさいと身振り手振りで注意してくれた。

 観光は昼の1時ごろから開始。コロッセオ、カラカラ浴場など世界史の教科書で見たようなローマ帝国の名残を巡ってみることにする。ローマは地下鉄とバスの町といった感じである。その二つで基本的に十分用に足る。ただ、狭いところにいくらでも見所があるので徒歩で十分問題はないし、そのほうが思いもよらずふとしたところで目を引かれる何物かに出会うことが出来る。町全体に坂が多いので元気があれば、の話だが。ちゃんと理解するまでは、やはり券売機の前でかなりの時間機械とにらめっこする必要があったが、ひとたび理解してしまえば交通機関のシステムは、いたって単純である。地下鉄も、バスも、路面電車もすべて共通のチケットなのである。それを全て、時間を記録する自動改札に通すだけである。チケットには75分以内であれば乗り継ぎ可能なものや、一日券などがあり、そこら辺の喫茶店のようなところでも売っている。路面電車は利用しなかったのでどうかわからないが、バスに関していえば無賃乗車し放題といった感じであった。

 コロッセオやカラカラ浴場、フォロロマーノなどはまず、その大きさであろう。石を積み、組み合わせ、あれだけのものを作ろうと考えたというだけで、彼らの強い意識には脱帽させられる。これらあまりにも有名すぎるものから、ガイドブックには載っていないような建物まで、ローマには廃墟の街という呼び名がふさわしいだろう。廃墟、というとマイナスのイメージが強いが、ローマのそれはもちろん石造りということにもよるのだろうが、現在もその威厳を失わずに直立し、利用され、さらに生活に溶け込んでいるのである。ローマ市内において廃墟は決して孤立しない。石造りの町並みと、石畳の道路は廃墟の延長である。

 食事はピザ。5ユーロほどあればなかなかの量を食べられる。ちなみに日本と違いタダで水が出るようなことはないので、飲み物を注文しないとまず確実に飲み物は?と聞かれるのだが、こっちは出来るだけ安く上げたいんですがねぇ…。よく、イタリア人はバカ食いする、などといわれるが、ことピザに関して言えば値段と比較してその大きさは確かにかなりのお得感がある。しかし、パスタは同じ値段でも、なんともまぁこじんまりと盛り付けられる。よって、自然と旅行中の食事はピザばかりになってしまい、さすがに最後の方はいくらか飽きてしまった。向こうで会った日本人に聞いた話では、ヨーロッパではイタリアの料理が一番うまかったとのことである。確かに、適当に注文しても一度も外れはなかった。

 時差のせいでかなり眠たくなってきたので、午後7時ごろには宿に向かうことにする。まだ宵の口だが特に治安が悪いということはなさそうだ。イタリア人はガタイがいいということもないので、恐るるに足らず、だ(?)。あちらでは、テルミニ駅にくっついているSPARを除いていわゆるコンビニといったものは一度も見なかった。その代わりに出店とプレハブの中間のような店で飲み物からジェラート、ピザ程度まで売っているのである。特に観光地や広場等には必ずといっていいほど出ているのでかなり利用させてもらった。夜中にコンビニにたまるということが不可能なのも、治安がよさそうに見える一因だったのだろうか。

 宿に帰って寝る。


9月25日
 宿の朝食の時に、日本人と同席する。どちらも名前すら名乗らなかったが、彼は31歳、ちょっと前に仕事をやめて、3ヶ月ほど旅行して過ごしているらしく、これから東欧のほうへ向かうそうだ。どうも、日本にいたらどちらかといえばうだつの上がらないとか言われそうな類の人だったのだが、うらやましいし、たいしたものだ。

 予定より少し遅れて9時半ごろ出発。地下鉄を利用しバチカンへと向かう。サン=ピエトロ寺院から始まって、バチカンミュージアム、システィーナ礼拝堂を巡る。ローマ神話の神々の像や、キリスト教の聖人の像、さらにはかの有名なピエタやら最後の審判やらとにかくそういった類のものが目白押しである。勉強不足のせいで、どんなシーンを描いたものなのか想像するしかないというものが多いが、それでも何のことやらわからずとも十分に圧倒される。意匠に凝った教会の内部や、キリストを頂く慈愛に満ちた聖母、『描かれた神曲』とも呼ばれるまさに傑作の中の傑作といった壁画。もし、他に一切の人がいない状態で、たった一人でバチカンの中を巡ることが出来たとしたら、キリスト教に改宗しようと思い至るのではないだろうかと、そんなことをふと考える。『敬虔な』気持ちを引き起こすようなものに溢れており、囲まれているということが伝わってくる。そう感じさせるだけのものが人を集めないわけはないので、無理な話なのだが、できることならば一人でじっくりと向かい合ってみたいものばかりであった。

 バチカンからしばらく歩き、サンタンジェロ城、パンテオン、ヴェネチア広場、真実の口、トレビの泉、スペイン広場といくらか早足で観光名所を軒並み回る。別に真実の口はどうってことないと聞いていたが、一応ならぶことに。前の方でおっさんが『ぎゃあ』とか言っている。どこの国にもこういうおっさんはいるものだ。あのおっさんの腕が食いちぎられないのなら無事であろうことは間違いないが、利き腕を失うわけにはいかないので一応左手を突っ込んでおいた。街中の何気ないところに噴水が数多く存在することも、ローマの町の印象的な点のひとつである。トレビの泉も比較的ごたごたした街中に突然と現れる。ネプチューンとトリトンと湧き出る水の傑作は、ただ眺めているだけでいくらでも時間を費やしてしまいそうなほどのものであった。『旅行とはガイドブックに載っていることを確認する作業である』と、どこかで聞いたことがあったが、今日一日はまったくそんな感じであった。

 今日は多くのところを巡りさすがに疲れたので、午後9時ごろには宿に戻り眠ることにした。


9月26日
 もともとの予定ではローマに4泊するつもりだったのだが、想像していたよりもずっとローマは小さく、行きたいと思っていた場所は昨日まででひととおり回ってしまった。このまま、まだ行っていないところを巡り、あるいはのんびりと過ごしてもよかったが、折角イタリアくんだりまで来てそれもなんだかもったいないので思い切って、フィレンツェ、あるいはヴェネツィアに向かうことに決定。

 宿をチェックアウトし、テルミニ駅へと向かう。インフォメーションでいろいろ聞いてみたり、自動券売機と格闘したりして何とかフィレンツェ行きのチケットを購入。本当はヴェネツィアの方が行ってみたかったのだが、5時間以上かかるそうで、仕方なくあきらめる。ヨーロッパでは鉄道網は国境を越えてつながっているのだけれども、記憶が正しければ、早い順にユーロシティー、ユーロスター、インターシティー…などとなっている。今回買ったのはインターシティーのチケット。特急程度の感じだろうか。フィレンツェへと向かう。3時間ほどの世界の車窓から。驚かされたのはトイレで、水を流すと、その底の部分がぱかっと開いたかと思うと、排泄物をそのまま線路に直接落としていたということ。今回は小便だったが…、恐るべきシステム。

 よくわからない車内放送を何とか聞き取り、フィレンツェ・サンタマリアノベッラ駅に到着。ちなみにもっていたガイドブックはローマだけのものなのでまったく情報なし。わかっているのはここがフィレンツェであるということだけ。ここに何があるのかも、実際よく知らないで来た有様である。「あれだよあれ…メディチ家がね…」と、入試試験以来の記憶を何とか思い出してみる。駅周辺をしばらく巡り、何とかインフォメーションセンターを発見。まぁ、フリーマップぐらいのものがもらえればいいかと思っていたら、どうやら日本語の地図まで用意されていた。グッジョブ、フィレンツェ。

 それによってフィレンツェには『ダヴィデ像』『(ボッティチェリの)春』があるということを確認。昼食をとりながら、一人作戦会議。回る順番を決める。まずは、ダヴィデ像から。入場を何人かずつ区切っているらしく、しばらく並ぶ羽目に。フローレンスの太陽が厳しい。30分近く並び、ようやく入館。なにやらよくわからない絵画をいろいろ見ていよいよダヴィデ像と対面。その巨大さもあいまって、その理想的な肉体はすばらしい迫力である。それにしても、彼の股間をプリントしたトランクスがお土産として売られているのだが…さすがイタリア人、大胆かつ緻密な(?)センス。一瞬買おうかどうか本当に悩まされました。大変華美なドゥオーモを経由し途中いくらか教会を巡り、シニョリーア広場では大道芸をタダ見し、『春』が飾ってあるウフィッツィ美術館へと向かう。かなり並んでおり、しかもぜんぜん動いてるように見えない。仕方なくあきらめることにする。一切交通機関を使わずに歩き回ったために感じられたのだが、フィレンツェは徹底的に石畳の町である。そしてかつての豪商の名残であろうか教会も白い壁に赤、青、緑の装飾と非常に華やかである。見上げれば花の町、見下ろせば石畳の町、である。

 実はこのときにはすでに、ここまできたらもう思い切ってヴェネツィアまで行ってしまい、今日はヴェネツィア泊、明日一日ヴェネツィアを巡り、(飛行機の時間を考えるとせめてフィレンツェにいないと厳しいために)夜の電車でフィレンツェに戻り宿泊、朝一で『春』を見て、ローマへ戻ることにしようと考えていた。ヴェネツィアまで行き、『春』を見て、しかも飛行機に間に合わせるにはこれが最良の計画である。

 午後6時ごろフィレンツェ・サンタマリアノベッラ駅へと戻り、駅の宿の予約センターで明日のフィレンツェ泊用の宿を予約し(最後なのでいくらか奮発し50ユーロ、部屋にシャワー、トイレ付き)、ユーロスターでヴェネツィアへ向かう。

 ヴェネツィアへついたのが午後9時過ぎ。またしても地図もガイドブックも一切ないので、仕方なく駅の予約センターで宿を探すことに。できるだけ安いところといったのにもう埋まってしまっているらしく、70ユーロのところしかないそうで仕方なくそこに泊まる。タダの地図をもらって場所を説明してもらい、途中で食事を済ませ宿へと向かう。なかなかリッチなところであり、イタリアに来てから始めてテレビを見る。もちろん、何を言っているかはさっぱりわからなかったが。

 今日は電車での移動が大部分を占めたが、それでもフィレンツェを歩き回ったため大変疲れていたので、シャワーを明日の朝回しにしてとっとと眠ることにする。


9月27日
 朝早く起きてヴェネツィアを巡る。当初、日本をたったときにはヴェネツィアへ来ることはほとんど想定していなかったので、お金にあまり余裕がなくなった。節約の必要性がいくらかでたために、折角ヴェネツィアまで着たのだが水上バスをあきらめる。まぁ、例によってここも歩くだけで十分いろいろ回れる。むしろ、この日は歩きすぎたぐらいで、ヴェネツィアをほとんど一周してしまった。それに、折角のベニス、シャイロックを気取った節約もまた一興であろう。

 ちなみに、このヴェネツィアがローマ、フィレンツェと今回巡った三都市の中で一番気に入った町である。水の都、あるいは水上都市のふたつ名にふさわしく、水路が道路の代わりを果たしている。自動車などといった無粋なものの侵入を拒んでいるかのような狭い道路。高い石壁に挟まれ、石畳に覆われた、二人通るといっぱいになるぐらいの細い路地を歩いて行くと、静かな教会と広場が目の前に突然開けるといういかにもヨーロッパらしい町並み。水路の側を歩けば、ゴンドラの上から歌声が聞こえてくる。ユーモアに溢れたお面の店と、精密で美麗なヴェネツィアガラスの店。とにかく気に入った町である。

 これといった史跡や美術品も見なかったのだが(ホテルの場所を教えてもらうために唯一タダでもらえた地図がイタリア語であったし、観光案内などはほとんどかかれていなかった)町並みだけで非常に楽しむことができるのである。オープンカフェでのんびりとピザをつまみ、アコーディオンの調べに(もちろん、チップはあげませんでした。ごめんなさい)耳を傾ける。ああ、いいなぁ、こういうの。ひたすら歩きつづけ、昨日あたりからいくらか痛くなりかけていたひざや足首が大変痛くなったが、途中でベンチに腰掛け、水路を眺めつつジェラートを味わうなど休み休み非常にのんびりと水の都を満喫する。

 午後6時ごろ駅へと戻り、フィレンツェへと向かう。9時近くになってフィレンツェ到着。昨日とっておいた宿へ向かう。明日は朝一で『春』を見て、そのままローマへ行き、飛行機。早く寝たほうがいいのだが、まぁ、最後の夜であることだし、そこいらの広場でお酒を飲んだりしてぼけーっと過ごす。街灯の数は決して多くなく、町全体は薄暗いのだがフィレンツェも治安がよさそうであるという印象を受ける。夜遅くまで誰もが普通にオープンカフェで食事を楽しんでいるのである。

 疲れのせいか、わずかなアルコールが非常に効いているように感じる。大変な心地よさに包まれる。宿に帰って寝る。



9月28日
 フィレンツェの宿で目を覚ます。薄暗い部屋の中で電気をつけようとしてもなぜかつかない。はっきりしない頭で、まぁ朝だし、と納得することにし、とりあえず顔を洗い、歯を磨き、昨日の夜は浴びずに寝てしまったのでシャワーを浴びることにする。…はじめは浴びられないほどの熱いお湯が勢いよく出てくる。しばらくするとその勢いが衰え始め、次第に弱いぐらいになってくる。ん?と思いつつ眺めているとやがてシャワーが止まる。このまま裸で突っ立ってても仕方がないので服を来て朝食をとることにする。その時にシャワーが出ないことを言えばいいだろう。

 8時ごろだったがすでに何人か起きてきており、宿のおっちゃんと話している。ラジオがかけられ、部屋はいくらか薄暗い。おっちゃんはイタリア語で老夫婦に対してなにやら説明のようなものをしており、その後、英語で日本人のおねーちゃんに話しかけ始めた。声が大きいのでその内容を盗み聞きする。

 …ふむふむ、なになに?イタリア全土?…?ブラックアウト?

 ブラックアウトってなんだべ…?えーっと……停電か!!!

 おっちゃんの話だと、イタリアはフランスから電気を買っているのだそうだが北のほうでその送電線がだめになってしまったせいで、今朝の午前3時ごろからイタリア全土で停電になったそうだ。原因はわかっておらず、復旧のめども立っていない。北イタリアのほうではいくらか復旧しだしたそうだが、まったく初めてのことなのでどうなるかはわからない。(おっちゃんの話ではそうだった。帰ってきてから原因とか調べてないので正しいかどうかは知らない。)

 とりあえず、朝食を済まし、電車はどうなってるのかと聞く。なんでも昨日の夜から電車に閉じ込められている人もいるらしく、まったく動いてないらしい。おっちゃんの言を借りればカオティックなのだそうである。空港についても聞くと、空港は自家発電なので飛行機はちゃんと飛んでいるとのことである。いいことなのか、悪いことなのか、判断がつきかねる。

 とにかくこのままここにいてもどうしようもないので、食事を済ませ、駅に向かうことにする。日本人のおねーちゃんもとりあえず駅へ向かうそうなので一緒に行くことに。信号はついてはいないが、朝早いせいか街中は別に混乱しているような様子はない。駅に到着。思っていたよりも込み合ったりはしていないようだが、インフォメーションセンターは人の列、列…。一応並び、話を聞いてみるもどうしようもないそうだ(もちろん英語ではろくな質問なんかできなかったが)。バスも信号が動いていないので止まっているそうだ。

 飛行機は午後3時ごろの出発。出来るだけ早くローマへと向かわなければならないのだが、他にどうしようもないのでしばらく駅で待ってみることに。彼女はフィレンツェ観光へ向かっていった。余裕があってイイデスネェ。9時30分ごろ、電気がつく。おお、これは意外といけるんではないか?と思い、希望を持って待つことに。

 …しかし、一向に電車が来る気配はない。ローマから空港まで30分以上かかることを考え、電車の待ち時間を考えると(動いていればの話だが)2時ごろにはローマについていないといけない。フィレンツェからローマまでは3時間ほど。11時ごろには電車が動き出してくれないと困るわけである。現在10時。どうしたものか…。あ、電気がついてるんだから、バスも動き出してるかもしれない、と考え長距離バス乗り場へ。ローマは?と聞くと、ゴー、トレインと返してくる。…結局ダメなようである。

 いよいよ時間が厳しくなってきたので、一応思い浮かんではいた最後のというか唯一の手段をとることを考える。すなわちタクシーである。だが、財布の中身は40ユーロほど。あとは日本円で6000円だけ。タクシーの運転手に料金を聞くとローマまで3時間ほどで500ユーロだそうだ。で、駅にたむろしていた日本人に(こういう状況ではなにはともあれ同郷の輩。英語で状況説明をしなければならないというだけでうんざりである。)状況を説明、急いで空港、あるいはローマに行かなければいけないという、タクシーに一緒に乗ってくれる人を探す。まったく方向が違うとか、急いでいないなどと何人かに断られたあと、いくらか乗り気の人を発見。人数は5人だから一人100ユーロほどと説明(もちろん、提案している自分が金がないことは今は伏せておく)。考えてみてください、といって一応他の人も探す。

そうこうしているうちに、なんとようやっとローマへ向かう電車が来たようで、その人たちに一応礼を言い、電車に乗り込む(ちなみにドサクサ紛れで無賃乗車)。現在11時。何とかギリギリ間に合う計算である。いくらか出発に手間取ったようだがついに電車が出発。どうやら帰れそうだと、ほっと一息つく。今までの不安から解放され、しばらくのんびりと世界の車窓から。

 …。

 …。途中の駅で停車。

 …ぜんぜん動き出さない。…事情を聞くとどうやらここから先はまだ復旧していないそうだ。

 !!!なにぃ!!???

 んなアホな…。どうするべきだ?タクシー戦術を取るべきか?いや、電車が動き出す可能性を考えると…デメリットが…第一、タクシーに一緒に乗ってくれる人は今さら見つからないだろうし…。などとイライラしながら結局答えの出せないまま1時間ほど足止めを食らわされた後、ようやっと電車が動き出す。ほっとして、再びもはやあまり優雅にも感じられなくなってしまった世界の車窓から。

 …。

 …また停まる。やはり1時間ほど動かない。フィレンツェで声をかけて、こっちの事情を知っている日本人からは「どうするんですか?」と声をかけられる。「あきらめました」の返答。いや、他にどうしようもないでしょう。もう、飛行機は飛んじゃったんだろうなぁ。状況を受け入れるんだ…。と、自分で自分に言い聞かせる。

 結局ローマ駅に着いたのが午後5時過ぎ。とりあえず、どうしようもないであろうが空港へ向かうことにし、レオナルドエクスプレスに乗り込む。半ば自暴自棄になりつつも空港に到着。おっちゃんの言ってた通り飛行機は遅れもなく動いている。ちなみに今回購入したチケットはFIXチケットといって決められた便のチケットで、安い代わりに一切の変更が利かないというもの。リスク込みの低価格なのだろう、おそらく払い戻しやら代わりのフライトの手配等は一切無理と思われる。どうなるんだろうなぁ、と思いつつタイ航空の窓口へ行ってみるも閉まっており、人っ子一人見当たらない。さて…いよいよどうしましょうかねぇ…。

 先ほども言ったが、やはりこういったときは同郷の輩。日本人に声をかける。

 「大使館の電話番号ってわかりますか?」

 「はい?」

 …状況説明。もちろんあわよくば、チケット代、貸してあげるよ、みたいな神の様な人にぶち当たることを極わずかながら望む。が、もちろんそんな人がいるわけもなく(見ず知らずの男に10万近い金をぽんと貸せる人がいるだろうか)、何とか大使館の電話番号と場所を聞くことだけに成功する。このとき声をかけた人の中にHさんがいたのだが、事情を聞いた彼は大変親身になって心配してくれた。

 「メシ、食ってんのか?」

 「ええ、まぁ、ぼちぼち…」

 「食事代出すし、まぁ、来なよ」

 よほど悲壮な表情をしていたのであろうか、彼は食事中もずっと温かい言葉で励ましてくれた上に、こちらがほとんどお金がないということがわかると彼の手持ちの全てである100ユーロまで貸してくれた。ありがとうHさん。あの時ご馳走になったリゾットの味は決して忘れません。彼のおかげでずっと動揺しっぱなしであった気持ちがかなり落ち着く。

 Hさんは日本へと帰っていった。心からの感謝と共に別れる。明日朝一でローマの日本大使館へと行くために再びローマ市内へと戻る。雨も降り出した。強く打ちのめされたような気分と冷たい雨、その中で受けたこの上ない親切と、何もかもがごちゃごちゃになり涙が出そうになる。今さらになって自分のいる場所の遠さに思い至る。とにかくまずは寝るところの確保だと、駅と大使館の近くで宿を探す。足止めを食った人が多いのか、時間的な問題なのか、どの宿もいっぱいである。どれぐらい歩いただろうか、結局安宿は見つからず、かろうじて70ユーロもするいいお値段のする宿に泊まることにする。Hさんからお借りしたお金のおかげで、夜露をしのぐどころか暖かいシャワーまで浴びることができました。これからどうなるのかわからないが、まずは寝ることだと考え、とにかくベッドに入る。



9月29日

 朝、早めに起き、シャワーを浴び、食事を済ませ大使館へと向かう。大使館では航空券代を貸してくれることはないとどこかで聞いたことがあったがとにかく他にとるべき手段も思い浮かばないので、行くしかないだろう。

 大使館に到着。パスポートを提示し、なにやら書類に記入し入館。実際に対応してくれたのは領事館に当たるのだが、勝手に想像していた横柄な対応などといったものはなく丁寧に対応してくれた。状況を説明すると、まずはタイ航空のオフィスへ行ったらどうか、とのこと。比較的近場だったので位置を教えてもらい向かうことにする。ちなみにこのとき教えてもらった位置、まったく違った場所だったのだが、どうしても見つからないのでその辺歩いてる人に聞くことで何とかたどり着く。領事館のおっさん、たのむよ…。

 タイ航空、前にも書いたとおりFIXチケットであったので、ほとんど門前払い同然にあしらわれる。予想していたことではあったが、不可抗力ですよねぇ…停電は。

 再び大使館に戻る。そこで、カード等一切なくとも日本から送金してもらうシステムがあることを教わる。その説明を受け、実家に国際電話。状況説明。とりあえず、航空券代もわからない状況ではどうしようもないので、JTBへと向かう。日本へ一番早く帰れる便は、翌30日午前10時45分発、ウィーン経由、1日の午前8時関空着で大体600ユーロほど。状況を説明すると、なんとクレジットカードのカード番号と有効期限さえわかっていればカードなし、サイン無しで引き落としができるとのことである。おお、これだ!!!と思い、早速実家に電話。もろもろ教えてもらい、意外とあっさり航空券購入に成功。これで一安心。ようやっとほっと一息つくことができた。

 出発は明日なので、今日の宿を探す。最初に泊まっていたペンションジャマイカへ向かう。一泊なのに最初から30ユーロで朝食つきでオッケーだった(前回は朝食は別に料金を取られた)。まだ昼の1時ごろだったので、もったいないし、このままここにいてもどうしようもないので外出。前に行こうと思ってて結局行けなかったアッピア街道へと向かう。やたらとのんびりしてすごし、スペイン広場から夕日を眺め、夜のトレビの泉でぼんやり時間を過ごす。晩飯はやっぱりピザ。感謝して食べねば。明日寝坊したらさすがに大事なので、宿に戻って眠る。



9月30日

 朝、いくらか寝坊したがまぁ、問題ない程度であった。やはり疲れていたのだろう。朝食を済まし、いくらか急いでチェックアウトを済ます。宿のおばあちゃんはイタリア語でなにやら言っていたが、「また来なさいよ」みたいなことだと思う。きっとそうだろう。駅からまたもやレオナルドエクスプレス。必要以上に乗ったのでもはや慣れたものである。空港着。なにやら飛行機の出発時間が30分早くなったそうでかなり急いだが結局は時間どおりに離陸。最後まで心安らかに、とはなかなか行かないようだ。

 ウィーン経由。所詮、かろうじて可しかもらえない程度の第二外国語のドイツ語では何を言っているのか、何を言えばいいのかさっぱりわからない。一応、ダンケシェーンだけは言っておく。

 ウィーンからの飛行機の中でマトリックスリローデットを見たが、これもさっぱりわからなかった。


10月1日の朝、関空に到着。財布の中に残されていたのは2ユーロ54セントだけだった。いや、がんばったもんだ。


 もうすでに大学が始まってしまっている。今は意識されなくても、そのうちいくらかすれば疲労が重たくのしかかってくるだろう。とりあえず、今週一週間ぐらいは大学をサボっても問題あるまい。何か言われたら、全てを停電のせいにしてしまえばいい。とっとと家に戻ってラーメンでも食べてベッドで眠ることにしよう。


 廃墟も、傑作も、石畳も、水路も、全てが深い印象として残されたが、よりいっそう心の琴線に触れる何物かを見せてくれ、与えてくれた、イタリアで親切にしてくれた人たち、特にHさんに最後にもう一度感謝を述べたい。